10月20日、名古屋のあるベーカリーの取材を終えて店を出ると、かなりの雨。地下鉄の駅まで足早に歩いて電車に乗り、名古屋駅に向かった。
思ったより取材が早く済み、しかも取材内容にもかなり満足していた。これですんなり、東京へ帰れたら、もう言うことなし。
日頃の行いがいいせいか?運がよかった。J記者が席をとった名古屋発3時24分ののぞみ号は、間近に迫った台風23号の影響で、東京に向かう最後の列車となっていた。
ホームの自動販売機でペットボトルのお茶を買い、のぞみ号に乗り込んだ。「やれやれ、これで帰って記事がじっくりと書けるな」などと思いながら、うとうとしていたら、悪魔の声が聞こえてきた。「小田原熱海間で規定の雨量を超えたため、運転を見合わせています。しかがって、この列車は豊橋で停車します。なお、本日中の運転再開の見込みは現在のところ立っていません。お急ぎのところ大変申し訳ありませんが、ご理解のほど、お願い申し上げます」
「勘弁してよ。どうすんだよ」。しかし、「これも生まれて初めての経験だ。いい思い出になるかも」と考え直し、疲れた体を休めながら、うとうとしていたら、後ろの席から聞こえてきた若い女性の携帯で話す声で目が覚めた。なぜかやたらとテンションが高かった。
「これが最後の東京行きだっていうからアー(しり上がりの調子)、ラッキーとか思ってエー(しり上がりの調子)、そしたら10分もしなううち止まってやがんのオー(しり上がりの調子)。知り合いがさ、同じような経験しててエー(しり上がりの調子)、20時間閉じ込められたとか聞いててエー(しり上がりの調子)、毛布なんか配られちゃってエー(しり上がりの調子)・・・」
「20時間も閉じ込められた」という彼女の言葉がJ記者を刺激した。
「冗談じゃない。20時間もこんなところに閉じ込められてたまるか」と思い立ち、すぐに荷物を持って、席を立った。
「豊橋に泊まろう。原稿はホテルで書けばよい。でもうまい具合に宿が取れるかな」
104に電話。「こんな聞き方できるんですかね。豊橋駅近くのホテルを教えてほしいのですが」。するとオペレーターは、「2軒あります」と答えた。
教わったホテルに電話すると1軒目は「もう満室です」。2軒目は「空いてますよ」。しかし、1軒目と2軒目で口調があまりにも違う。1軒目はとても忙しそう。2軒目はいかにもヒマそうだった。
「素泊まりで3500円という値段も気になるし、けっこう不安は残るが、他にとれる保証もない。いちかばちかここに決めよう」。そう判断し、予約した。
もう、午後6時近かった。予約したのは「M旅館」。いわゆるビジネスホテルではないことは察しがついた。横殴りの雨の中足早に歩いて、2分で着いた。
木造2階建ての古いさびれた旅館だった。年配の女性が雨の中、玄関の前で待っていた。「すぐに分かりました?」と元気な声。その声に少し圧倒されながら、一言二言言葉を交わし、案内されるまま、玄関を上がり、2階の部屋へ入った。
かつての隆盛をしのびながら、少しづつさびれていく自分の姿をじっと見つめている、そんな感じのする部屋だった。他に客がいる気配はなかった。
置いてある電話が、J記者の子供の頃にも見たこともないような趣のある黒電話だった。そして通話ができないというのが、さらに趣を深めていた。
「今日はJ記者があなた(たしか部屋の名前は「ゆりの間」でした)とじっくりと付き合うから」と心の中でいうと、その黒電話の表情が少し変わったような気がした。
原稿は2時間弱で書き終わった。
|